インターネットの死

「コミュニティの一生」という概念がある。ニコニコ大百科にも項目が存在し、多くのネット住民にとって既視感のあるサイクルとして語り継がれてきたものだ。

https://dic.nicovideo.jp/a/コミュニティの一生

このサイクルはいわば、コミュニティが成長し、成熟し、そして死ぬまでの過程をモデル化したものと言える。生命体のようにコミュニティには寿命があり、その一生には明確な段階が存在する。多くの者がこのパターンを目撃し、自らが参加していたコミュニティが辿った運命として記憶している。

最初に"面白い人"が現れ、面白いものを作る。人を惹きつける作品、自由奔放な発想、誰も思いつかない実験──そうしたものが自然に生まれ、そこに興味をもった人々が集まってくる。初期のコミュニティには雑多だが濃密な空気が漂う。何が起きるか誰にもわからず、どんな冗談が飛び出すか予測もつかない、特有の熱気がある。

この初期段階においては、参加者一人ひとりが能動的である。何かを作り、何かを試し、何かを投げかける。受け身の姿勢では楽しめない空気があり、それ自体が一種のフィルターとして機能している。結果として、創造性のある人間だけが自然と集まり、密度の高い相互作用が生まれる。誰もが発信者であり、同時に受信者でもある。この均衡が、初期コミュニティ特有の熱狂を支えている。

しかし、その熱気に惹かれて"面白くない人"が流入し始める。彼らは「面白いものを見にくる」という受動的な目的で集まり、やがて自分たちでも何かを作り始める。ところが、その創作物は必ずしも面白くない。創造性よりも消費が中心であり、コミュニティ全体の雰囲気は徐々に平板化する。重力に引っ張られるように、面白くないものが増殖していく。

この段階では、コミュニティ内部に二つの層が形成される。創造的な初期メンバーと、消費的な後発参加者である。前者は依然として面白いものを作り続けようとするが、後者の増加に伴い、その試みは次第に埋もれていく。数の論理が働き始め、多数派である「面白くない人」の価値観が空気を支配する。面白い人の実験は「よくわからない」「意味不明」と評価され、面白くない人の凡庸な創作物が「わかりやすい」「共感できる」と称賛される。

面白くないものが増えれば、当然ながら面白い人は離れていく。初期の熱狂は消える。面白い人の実験精神はほとんど姿を消し、最後には面白くない人と面白くないものだけが残る。外見的には人が多いように見えるが、そこにあるのはもはや廃墟だ。活気はない。原野に風だけが吹いているような景色が広がる。

数字上の繁栄と質的な衰退が同時進行するこの矛盾こそ、コミュニティの死を見抜きにくくする要因である。運営側はユーザー数の増加を喜び、広告主は露出の機会を歓迎し、新規参加者は「人が多い=活気がある」と誤認する。しかし、そこにいる面白い人はもはや去っており、残された大多数は惰性で場所を占有しているに過ぎない。

この「コミュニティの一生」は、これまで主にインターネット内部の特定サービスについて語られていた。2ちゃんねる、ニコニコ動画、はてなダイアリー、ふたば、mixi、Twitter──どれも栄枯盛衰を経験した知名度の高い場所である。それぞれが同じような軌跡をたどり、ピーク時の熱気が信じられないほど失われた姿を人々は見てきた。

2000年代初頭の2ちゃんねるには、匿名性を盾にした荒々しくも創造的な文化があった。アスキーアートの職人、独自の用語体系、突発的な祭り、集合知による調査活動──それらは確かに「面白い人」たちの産物だった。しかし、やがてその空気感は失われ、定型化されたレスポンスと、感情的な罵倒と、既視感のあるやり取りだけが残った。

ニコニコ動画もまた同様である。初期の「歌ってみた」「踊ってみた」「やってみた」には、技術的な拙さを補って余りある熱量と実験精神があった。しかし、再生数を稼ぐための最適化が進むにつれ、創造性は失われ、定型のフォーマットに沿った量産物が増えていった。

しかし、もっと根本的なことがある。実際には「インターネットそのもの」が巨大な一つのコミュニティだった、という事実だ。もしそうであるならば、この広大なネット空間にも同様に「コミュニティの一生」が適用できるのではないか。

インターネット黎明期──1990年代から2000年代前半──には、確かに「面白い人」が集まっていた。技術的な障壁があったからこそ、そこに参加する者は能動的で、創造的で、実験的だった。HTMLを手打ちし、掲示板でテキストベースの議論を交わし、Flash作品を公開し、独自のコンテンツを生み出す。その過程そのものが楽しさであり、目的だった。

現在のインターネットはどうか。かつてのような、面白い実験や突拍子もない創造物が自然発生的に生まれる空気は希薄になった。代わりに、面白くない人が面白くないものを大量に作り続けている状況が見られる。文章、動画、配信、SNS投稿──それらが膨大な量で流れ込み、面白い人は「この空気にはいられない」と感じ始める。そして静かに去る。あるいは、沈黙する。

SNSのタイムラインは、かつてないほど高速で流れている。しかし、その中に含まれる本質的に価値のある情報、創造的な試み、独創的な視点は、割合としては減少し続けている。多くの投稿は、既存の話題への反応、他者の発言の引用、感情的な賛否、あるいはアルゴリズムに最適化された内容である。面白い人が労力をかけて作った独自コンテンツは、その洪水の中に埋もれ、ほとんど届かない。

やがて「インターネットは面白くない」という認識が一般化する。数字上はユーザー数が増え続けているため、一見すると繁栄のただ中にあるように見える。しかし、実態は質的な過疎化である。多くの場所がかつてのコミュニティと同じように、廃墟へ向かう道を歩んでいる。

この質的過疎化は、統計には現れない。月間アクティブユーザー数は増加し、投稿数も増加し、滞在時間も増加する。しかし、そこで生まれているものの大半は、消費されてすぐに忘れられる使い捨てコンテンツである。誰かの記憶に残り、文化として定着し、後世に語り継がれるような創造物は、ほとんど生まれていない。

もちろん、物理的な数だけを見れば廃墟のようには見えない。スマートフォンの普及により全人類がインターネットにアクセスし、利用者はさらに増える一方だ。しかし、それこそが問題を加速させる。面白くない人、面白くないものが増えることで、面白い人の流出はさらに進む。

かつては「インターネットにアクセスする」という行為自体に一定のハードルがあった。パソコンを所有し、設定し、ブラウザを起動し、URLを入力する──その一連の手順が、ある種のフィルターとして機能していた。しかし、スマートフォンの登場により、そのハードルは完全に消失した。誰もが、何の努力もなく、インターネットにアクセスできる。結果として、かつては物理的制約によって排除されていた「受動的な消費者」が大量に流入した。

さらに現代では、人類だけでなくAIすらインターネットに向けて膨大な情報を生成している。面白くない人がAIに生成させた"面白くない大量生産物"は、人口の制約を超え、指数関数的に増える。かつての「人の多さ=活気」という構図は完全に崩れ去った。

ChatGPTをはじめとする生成AIの普及により、誰もが「それらしい文章」「それらしい画像」「それらしい動画」を大量生産できるようになった。しかし、それらの多くは本質的に独創性を欠いている。AIは訓練データの統計的パターンを再構成するに過ぎず、真の意味での創造性──既存の枠組みを破壊し、新たな価値を提示する力──を持たない。面白くない人がAIを使えば、面白くないものが効率的に量産されるだけである。

面白くない人と、面白くないAIと、面白くない生成物だけが残るインターネットは、一見すると賑やかだ。しかし、その賑やかさは本質的にはノイズであり、廃墟のざわめきでしかない。

この状況は、かつてスパムメールが問題視された時代を想起させる。当時、電子メールの大半がスパムに占拠され、本当に重要なメッセージが埋もれる問題が深刻化した。現在のインターネット全体が、その状態に近づいている。大量の低質コンテンツが空間を埋め尽くし、本当に価値のある創造物を発見することが困難になっている。

では、面白い人たちはどこへ行くのか。彼らは面白くない人が容易に辿り着けない"別天地"を探している。それは、ブラウザを開けば数秒で到達できる場所では困る。ある程度の知的体力、主体性、探求心が求められる。簡単にアクセスできてしまう空間は、インターネットと同じように劣化の道を歩む運命にあるからだ。

歴史的に見れば、この動きは決して新しいものではない。usenetからWebフォーラムへ、WebフォーラムからSNSへ、SNSから次の場所へ──面白い人たちは常に移動し続けてきた。彼らは場所そのものに執着しない。重要なのは、そこに集まる人々の質であり、生まれる創造物の密度である。

候補としてはVRChat、Fediverse、Discordなどが一般に挙げられる。しかし、それらは結局インターネットの延長線上にある。かつてと比べれば参入の障壁も低すぎる。本当に「面白い人だけの空間」になり得るかは非常に疑わしい。

VRChatは確かに技術的ハードルがあるものの、それも徐々に低下している。Questのような安価で手軽なデバイスの普及により、参入障壁は下がり続けている。Fediverseは理念としては分散型で魅力的だが、実際にはTwitterからの避難民を受け入れる受け皿として機能しており、結局同じ問題を抱え始めている。Discordは招待制やサーバー単位での管理が可能だが、それでも結局はインターネット上のサービスであり、いずれ同じ道を辿るだろう。

とはいえ、面白いコミュニティのために通信方式そのものを作り直すのは現実的ではない。新しいプロトコルを作るのは労力がかかりすぎるし、大多数の人に使われるようになれば、結局現在のインターネットと同じ運命をたどるだろう。

技術的な観点から言えば、完全に新しいネットワークを構築することは可能である。しかし、それは同時に、既存のインターネットインフラから切り離されることを意味する。利便性を犠牲にし、到達可能性を制限し、ユーザー数の拡大を諦める必要がある。そのような選択は、実用性の観点から受け入れがたい。

したがって、現実的な方向性としては、インターネットを"部分的に利用しつつ"も、そこから半歩だけ外れた空間──インターネットに完全依存しない、アナログな手触りを持つ何か──を構築する必要がある。たとえば、限定的な物理的空間、特定のデバイス、特定の環境を共有する場、あるいは手間が必要な参加形式。そういった「努力が必要な入口」こそ、面白い人だけが自然に集まるフィルターになる。

具体的には、物理的な場所での定期的な集まり、特定のハードウェアを必要とするプラットフォーム、複雑な参加手続きを要するコミュニティ、あるいは高度な技術的知識を前提とした空間などが考えられる。重要なのは、その障壁が「単なる不便さ」ではなく、「参加する価値を理解している者だけが乗り越えられる試練」として機能することである。

インターネットが質的に廃墟へ向かうのであれば、面白い人たちは廃墟の外側へ出て、独自の別天地を探すしかない。その場所は小さく、手触りがあり、手間がかかり、しかしそれゆえに豊かである。

規模の経済は、コミュニティの質と相反する。大きくなればなるほど、平均への回帰が進む。だからこそ、新しい別天地は意図的に小さく保たれるべきである。拡大を目指さず、多数の参加を求めず、ただ質の高い相互作用を維持することだけに集中する。それこそが、持続可能な面白いコミュニティの条件である。